空っぽなムードに寄せて

 とあるバーで、私は意識を手前の汚い壁と一体化させようとしながらビールを飲んでいた。しばらくすると、70年代前半(だったかな?)の元・新左翼の運動家だという男性が店に入った。厳かな雰囲気で無口なタイプに見えたわりに、案外おしゃべりで、いろいろと面白い話をしてくれた。とくに二つが記憶に残っている。

 一つ目。彼は神の存在を信じていないにもかかわらず、大川周明の著作に感銘を受けたことをきっかけにイスラム教に改宗したという。アッラーがまるで存在しているかのように形式主義的に生きることで、彼には、モスクの人々と連帯しているという感覚が生まれるのだそうだ。要するに、イスラム教の信者ごっこが彼のアイデンティティになっている。これはなかなか寂しい生き方だと感じたのだけれど、同時に現実が底抜けになりつつある現代社会を生きるうえで参考になるかもしれないと思った。少なくとも、私が彼を責める筋合いではない。私自身も中道左派ごっこをしているのだから。

 二つ目。彼が、第一トランプ政権以降、流行りに流行ってきた陰謀論、とくに「ディープステート」について、ある鋭いことを言った瞬間、私は思わず膝を打った。それは、ディープステートは「機能」として存在しているが、同時にそれには「実体」がない、という指摘だった。

 彼の言葉を私なりに解釈すると、次のようになる。国家と大企業がここまで膨張してくると、それらを回すためには、民主主義の管轄外にある官僚制や、いわば黒幕のようなものが当然必要になる。

 この官僚制(あるいは支配階級など)は、国家と民主主義を制御するために確かに「機能」している。しかし、官僚や資本家たちがどこかの密室に集まり、全体を仕切っているかといえば、実情はむしろその逆だろう。それぞれの勢力はお互いにほとんど連絡を取らず、ただバラバラの経路を辿っている。そして、その制御する側をさらに制御するものは存在しない。つまり、ディープステートには実体がない。

 100年前、このような状態は「鉄の檻」と呼ばれ、60年前には「疎外」や「管理社会」と呼ばれていたらしいが、現在、この不思議な無力感は、「ディープステート」という名の陰謀論として表現されているのだろう。

 ここまで書いて、聞こえはいい。そうだ、陰謀論とは、現代社会に漂う無力感を体現しているものなのだ。それはただの症状にすぎない。

 しかし、困ったことにどうもそこに実体があるかもしれない。無数の死体が浮いている真っ黒な川のように、ジェフリー・エプスタインの写真が、次から次へ私のタイムラインを流れてくる。トランプ、ビル・クリントン、ノーム・チョムスキー、ビル・ゲイツ、マイケル・ジャクソンなど。児童売春リングを仕切っていたあのエプスタインと、笑顔で映る写真たち。写真は「実体がある」と迫ってくる。われわれの黒幕たちが、これほど露骨で恥知らずなことをしてきたのだと突きつけてくる。私はしばしば、これらの写真を見つめきれず、目を瞑ってしまう。

 リベラル・メディアでは、陰謀論に対する批判がいろいろとなされているが、その多くはいまいち歯切れが悪い。いかに実証主義的に、陰謀論は陰謀論にすぎないのだと証明したところ、しかし、多くの場合、陰謀で動いている現実の世界について何も語っていないことになってしまう。陰謀論はもちろん問題だが、実際に陰謀が常に現実のつきものである以上、ただひたすらその可能性を封じ、陰謀論者の狂気だけを指摘していては、議論にはならないし、むしろ一種の倫理主義に陥りかねない。

 陰謀論は、意味や価値観の真空の中に生まれてくる。そして、陰謀論に対する不安は、おそらくこの空虚そのものに対する不安から来ているのではないか。考えてみれば、1970年代は、陰謀論が本格的に始まった、というよりも、陰謀論が「陰謀」より怖くなった時代だったのかもしれない(昔のネット記事でそれらしい指摘を読んだ覚えがあるのだが、残念ながらその出典は見つからない)。もちろん、それ以前にも陰謀論があふれていたが、陰謀論がもたらすパラノイアについて、人々はそこまで自覚的ではなかっただろう。ベトナム戦争の狂気、その後のウォーターゲート事件、ロッキード事件といった汚職を通じて、人々はCIAの入り組んだ策略を知ると同時に、何が本当かどうかわからなくなるという感覚――パラノイアそのものを意識し始めたのではないか。

 現代のディープステート云々は、おそらくこの延長線上にある。これから求められているのは、陰謀論を生み出す空虚そのものを、どうにかして埋めることなのだろう(あの存在しないアラーを信じる元運動家のように)。言い換えれば、ディープステート云々よりもう少し希望のある物語を生み出していくということだ。